蘭学事始 - 39

一、今の宇田川玄真、初めは伊勢の安岡氏にて、京都生れの人なり。江戸へ出でて岡田氏を冒し、上にいふ宇田川玄随の漢学の弟子なりしよし。玄随、その才の固密なるを知りて蘭学に引導せんとの意ありて、つねづね玄沢へも噂せしことありしとなり。しかるに玄随、一とせ、侯駕に陪してその国に至りし頃にや、養家を辞し、本姓安岡に復せし時、玄真はじめて師命を含んで玄沢が許に来り、この学を習はんことを請ふ。蘭字の書方までは玄随より習ひ受けしと見えたれば、為に蘭言訳語の一小冊を授けて写さしめ、またかの局方の書を読ましむ。日々往来し、且つ寄食のことを乞ひけれども、そのころ家に支れることありて、暫く同社嶺春泰が許に託す。この頃春泰、疾んで日々に篤し、終に物故せり。ゆゑにこの後、玄沢、甫周君へ謀りて同所へ託して曰く、この男蘭学執心にしてその依るところなきを憂ふ。為にこれを取扱ひ給はらば、ゆくゆく君の業を助くべきものなるをと説く。君たゞちに諾して、これより同家に入塾することになりぬ。その際も玄沢がもとに往来して訳法を問ふことしばしばなり。もとこの男蘭説の実際に心酔していふ、われ他に望むところなし、随意にこの業の修行出来るの師塾ならば何方へも寄宿なしたきといふ宿願なり。それゆゑ桂川家へ託せしことなり。しかるに、そのころ同家は官務と治業と繁多にして、かれが素志を達すること能はざるを玄沢に訴ふることしげしげなり。一日、玄沢、翁にこのことを語る。翁、その頃は次第に専門の療術寸隙なく、素業を勤むべき暇とてはなき身となりたり。しかれども翁はもとよりこの道に志深かりければ、なお益々その道を開きたきの志止みがたく、解体新書成就の後も、かのへイステル外科書の訳文に手をかけ、金瘡瘡瘍の諸篇は草を起して数巻の稿は出来たりしが、その頃たびたびの病にかかりしに、傍人も諌め、これはこの業勤勉の崇りをなすところなれば、しばらく廃すべしといふ。尤も玄沢等もひたすら心志を放散し、偏へに老を養ふべし、不肖といへどもその業われこれに代るべしともいひ、且つは次第に老い行く年なれば、なかなか大業遂ぐべき気根もなく、その後は今に中絶したりけれども、その本志の已みがたく、数年の間見あたりし蘭書の分は大部の物といへども、力の及べる程は費えを厭はず購り求め、相応には蔵書も集まりたり。この学を事とせんとするもの誰にあれ、その志はありても、書籍に乏しき時は事成らずと思ひ、自ら読むには暇あらずとも、ゆくゆく子弟らはもとより志ある人に借し与へてもこの道開くるための稗益たるべしと思ひ、数十巻を蔵したり。さて、同じくは年若くこの道に志篤き人を見出だし、別に一女に妻はし、養子となし、この業を遂げさせ、わが医道の未だ開けずして未だ足らざるところを開きてこれを補綴し、諸氏の疾苦を広済なしたきものと朝暮心にかけし折なれば、幸ひに玄真あることを喜び、即ちこれを招き、その志を問ひしに、そのいふところ、玄沢が申せしに違はず。よりて翁が家に迎へ、父子の契を結びたり。玄真もその意を得て深く喜び、わが家の蔵書を自在に取扱ひ、日夜怠らず学び、黽勉一かたならず、やゝもすれば夜を徹することもあり。その精力のかくなりしゆゑ、進めることもまた速かにして、その功昔日に倍せり。翁が喜びもまた知るべし。しかありけれども、その頃は年弱き時なれば、かれには専精すれどもまた気の移りやすき客気盛んの最中なれば、身持至って放蕩となり、しばしば異見をも加へたれども、いよいよ募りてやまざるにより、惜しむべきの才子とは知りたれども、捨て置かば如何なることをや仕出かし、侯家の御名を汚すべきこともあるべしと、老が身のその心一日も安からず。やむことを得ず離縁して長く交を絶ちたり。