蘭学事始 - 31

一、この余わが門に出入せしもののうち、この業を学びかかりしもの多かりけれども、或は久しく都下に足をとゞむることかたく、或は官途につながれ、或は生計に逐はれ、或は病身、或は夭死などと、みなはかばかしく事を遂げしもなかりき。しかれども、翁がこれを発起せしにより、その支派分流を生じ出だせしは少からず。さて、安永七八年の頃、長崎より荒井庄十部といへる男、平賀源内が許に来れり。これは西善三郎がもとの養子にして政九郎といひて通詞の業をなせし人なり。社中蘭学を興すの最初なれば、翁が宅へ招き淳庵などと共にサーメンスプラーカを習ひしこともありし。源内死せし後、桂川家に寄食し、その業を助け、また福知山侯へも出入して侯の地理学の業にも加功したり。〈侯専ら地理学を好み給ひ泰西図説等の訳編あり。〉庄十郎、後は他家に在りて森平右衛門と改名したり。この人江戸へ下りていささか社中を誘発せざりしにもあらざらんか。今は千古の人となれり。