蘭学事始 - 25

一、同盟の人々毎会右の如く寄りつどひしことかくありしといへども、各々その志すところ異なり。これ実に人の通情なり。先づ第一の盟主とするところの良沢は、奇異の才ゆゑ、この学を以て終身の業となし、尽くかの言語に通達し、その力を以て西洋の事体を知り、かの群籍何にても読み得たきの大望ゆゑ、その目当とするところ康煕字典などの如きウヲールデンブックを解了せんといふことに深く意を用ひたり。それゆゑ世間浮華の人に多く交はることを厭ひたり。〈またこの学開くべき天助の一つには、良沢といふ人、天性多病と唱へ、この頃よりは常に閉戸して外へも出でず、またみだりに人にも交はらずたゞこの業を以て楽しみとし、日を消し居れり。その君昌鹿公はその素志の情合をよくしろしめし、かれは元来異人なりとて深く咎めもし給はず。しかれども本務に怠りがちなりければ、勤め方疎漫なりと上へ告げ奉りし人もありしに、公の曰く、日々の治業をつとめるも勤めなり、またその業のためをなし、終には天下後世生民の有益たることをなさんとするも、とりも直さず、その業を勤むるなり。かれは欲するところありと見ゆれば、そのこのむところに任せ置くべしとて、一向に打ち捨てさし置かれたり。すでにその前後ポイセンプラクテーキなどいへる内科書を求められ、その紙端に御印章押し給ひて与へ給ひしこともあり。元来その号を楽山と呼びしが、高年の後、自ら蘭化と称せり。これは昔、君侯より腸はりし名なりと。これは君侯常に良沢は和蘭人の化物なりと御戯れにのたまひしより出でたり。その寵遇かくの如きことにてありたり。これゆゑ、良沢心のまゝにその学の修行出来たることなり。さて、浮華の輩、雷同して従事せしも多かれども、創業の迂遠なるに倦みて廃するもの少からざりしに、この先生、生涯一日のごとく、確乎として動かざりしゆゑ、その中には今の如くその業を遂げしもあることと思はるゝなり。これ全くこのこと開くるの時に遭ひしゆゑにや。〉また中川淳庵は、かねて物産の学を好めるゆゑ、何とぞこの業を勤め、海外の物産をも知り明らめたきことを欲せり。〈また傍ら奇器巧技のことを嗜み、自ら工夫を凝らして新製せるも少からず。和蘭局方を訳しかかりしに、業を卒へず天明の初年かく膈症を患ひて千古の人となれり。〉桂川君はさしてこれといふ目当とては見えねども、前にもいへる家柄なれば、たゞ何とはなくこの事をこのみ給ひ、齢は若し、気根は強し、会毎に来り給ひてこの挙に加はり給へり。翁はこれらとは大いに違ひ、始めて観臓し和蘭図に徴して千古の差あるに驚き、いかにもして先づこの一事を早くあきらめ、治療の用を助けたく、また、世医諸術発明の間にも用立つやうになしたき志のみなりければ、何とぞ一日も速かにこの一部見るべきものとなしなんと心掛け、この一書の訳をし、そのこと成らば望み足りぬと心を決し、思ひを興せしに依て、深くかの諸言を覚え、他事をなすの望みはなかりしなり。五色の糸の乱れしは皆美なるものなれども、赤とか黄なるとか一色に決し余はみな切り棄つる心にて恩ひ立ちしなり。その節思慮するに、応神帝の御時百済の王仁初めて漢字を伝へ書籍を持ち渡りてより、代々の天子、学生を異朝へ遣はされ、かの書を学ばせ給ひ、数千歳の今に至りてはじめて漢人にも恥ぢざる漢学出来る程になりたるなり。今はじめて唱へ出だせるの業、何として俄かに事整うて成就すべきの道理なし。たゞ人身形体の一事、千載説くところの違ひたるところを世に示し、何とぞその大体を知らせたく思ひしまでにて、他に望むところなしと一決し、右にもいへる如く、一日会して解せしところをその夜宿に帰りてただちに翻訳し記しため置きたるなり。同社の大人翁が性急なるを時々笑ひしゆゑ、翁答へけるは、凡そ丈夫は草木と共に朽つべきものならず、かたがたは身健かに齢は若し、翁は多病にて歳も長けたり。ゆくゆくこの道大成の時にはとても逢ひがたかるべし。人の死生は預め定めがたし。始めて発するものは人を制し、後れて発するものは人に制せらるといへり。このゆゑに翁は急ぎ申すなり。諸君大成の日は翁は地下の人となりて草葉の蔭に居て見侍るべしと答へければ、桂川君などは大いに笑ひ給ひ、のちのちは翁を渾名して草葉の蔭と呼び給へり。かかることにて年月は過ぎ行き、白駒の隙過ぐるよりも早く、とかくせし間に三四年の月日を重ね、おひおひ世の人も聞き伝へて尋ね来るもありしゆゑ、西洋説くところの臓腑、経絡、骨節等その既に知るところを以て大凡はその真面目を語り示せるほどにはなりたり。