蘭学事始 - 21

一、その翌日、良沢が宅に集まり、前日のことを語り合ひ、先づ、かのターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艪舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり。されども、良沢はかねてよりこのことを心にかけ、長崎までも行き、蘭語並びに章句語釈の問のことも少しは聞き覚え、聞きならひし人といひ、齢も翁などよりは十年の長たりし老輩なれは、これを盟主と定め、先生とも仰ぐこととなしぬ。翁は、いまだ二十五字さえ習はず、不意に思ひ立ちしことなれば、ようやくに文字を覚え、かの諸言をも習ひしことなり。