一、また、年は忘れたり、一春、かの幸左衛門、和蘭附添にて参府せし頃、豊前中津邸にて昌鹿公の御母君御座敷内にて不慮に御脛を折傷し給ひしことあり、貴人のことなれば大騒ぎにて、かれこれ医師を御招きのところ、幸ひに吉雄幸左衛門出府居合せ候ことゆゑ、ただちに御招きありて、御療治仰せ付けられ、御順快あらたり。この時前野良沢、御手医師のことゆゑ、懸合仰せ付けられ、格別懇意となりたり。これら、蘭学の世に開くべき一つといふべし。その後その主の供にて中津へ行きしかば、侯へ願ひ奉りてかの地へ下り、専ら吉雄、楢林等に従ひて百日ばかりも逗留し、昼夜精一に蘭語を習ひ、先に青木先生より学びし類語と題せる書の諸言を本として復習訂正し、なほこれに足し補ひて僅かに七百余言を習ひ得、それよりかの国の字体文章等のことなどもあらまし聞書して持ち帰りしことありたり。この時、少々は蘭書を求めて帰府せり。これ長崎へ外治稽古のためならで、かの書説学ばんとて参りし人のはじめなり。



