今時、世間に蘭学といふこと専ら行はれ、志を立つる人は篤く学び、無識なる者はみだりにこれを誇張す。その初めをかえりみ思ふに、昔、翁が輩二三人、ふとこの業に志を興せしことなるが、はや五十年に近し。今頃かくまでに至るべしとはつゆ思はざりしに、不思議にも盛んになりしことなり。漢学は中古、遣唐使といふものを異朝へ遣はされ、或は英邁の僧侶などを渡され、ただちにかの国の人に従ひ学ばせ、帰朝の後貴賤上下へ教導のためになし給ひしことなれば、ようやく盛んになりしは尤ものことなり。この蘭学ばかりはさようのことにもあらず。しかるにかく成り行きしはいかにと思ふに、それ医家のことはその数へかたすべて集に就くを以て先とすることゆゑ、却って領解すること速かなるか、または事の新奇にして異方妙術もあることのやうに世人も覚え居ることゆゑ、奸猾の徒、これを名として、名を釣り利を射るために流布するものなるか。つらつら古今の形勢を考ふるに、天正慶長の頃、西洋の人漸々わが西部に船を渡せしは、陽には交易によせ、陰には欲するところありてなるべし。故にその災ひ起りしを国初以来甚だ厳禁なし給へりと見えたり。これ世に知るところなり。その邪教のことは知らざるところの他事なれば論なし。但し、その頃の船に乗り来りし医者の伝来を受けたる外科の流法は世に残れるもあり。これ世に南蛮流とはいふなり。その前後より和蘭船は御免ありて、肥前平戸へ船を寄せぬ。異船御禁止になりし頃も、この国はその党類にはあらざる次第ありて、引続き渡来を許させ給ひぬ。それより三十三ケ年目にて、長崎出島の南蛮人を逐ひ払ひて、その跡へ居を移せしよし。それよりは年々長崎の津に船を来たすこととはなりぬ。これは寛永十八年のことなるよし。その後、その船に随従し来れる医師に、またかの外治の療法を伝へし者も多しとなり。これを和蘭流外科とは称するなり。これもとより横文字の書籍を読みて習ひ覚えしことにはあらず、たゞその手術を見習ひ、その薬方を聞き、書き留めたるまでなり。尤も、こなたになきところの薬品多ければ、代薬がちにてぞ病者も取扱ひしことと知らる。


